「互いに断りあってから兵(へい)を出す事にした」日本とロシア

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(5月24日分ブログの続き)

 

 少しなだらかで短な下り坂を下ると母校・上原中学があった。

 

 正門にかけられた「上原中学校」という看板を鮮明に覚えている。

 

 というのは、後日、先生のどなたかが「この看板は地区内に住む偉い書道家に頼んで書いてもらった物で、とても『お金がかかった』のだ」と言っていたので、どんなものかを確かめるべく見に行ったのだ。

 

 しかし私は「書道」というものは綺麗な字を書く事も大事だが、心を清めるなり精神力を鍛える物であり、「字を書いてお金をもらうのは変だ」と思ったのだが、黙っていた。

 

 正門の道路を挟んだ反対側は崖になっており、その中腹に同級生のA君が住んでいた。階段を駆け下りて道路を渡ればもう学校に着く訳で、正門から丘の上の教室までは若干あるとはいえ2分はかからない。通学に小一時間を要していた私は彼がすごくうらやましかった。

 

 正門を入ると左側に自動車通勤の先生達の自家用車が止められていた。そのうちの1台は歴史のH先生の車で、この車だけカバーがかけられていた。もちろん悪ガキに傷つけられないようにする為だったのだろう。

 

 H先生の授業で二つ覚えているのは日本とロシアが条約を結んだくだりで、先生は「これからは互いに断りあってから兵を出す事にした」という点を1時間の授業で数回、たぶん8回か9回、繰り返した事だ。

 

 これが「兵」は「屁い」のシャレであり、先生は「互いに断りあってから屁を出す事にした」といってみんなを笑わせようとしたのに、クラスの誰もそのシャレに最後まで気がつかず、先生は何度もこの文句を繰り返していらした訳だ。私は授業が終わってからこのシャレに気が付いた。

 

 H先生の授業のもう一つの思い出は、落書きだ。

 

 日本史の教科書には歴史上の人物の似顔絵や肖像画がよく出てくる。ある人物の顔の絵は落書きをするのに丁度よく、クラスの仲間の多くが思い思いにいろいろなひげを書きくわえていた。

 

 先生は机と机の間を歩き、落書きを書き加えた生徒の教科書のその絵を一々指で押さえながら、講義を続けていらした。