読売・綴り方コンクールで入賞した長文の紀行文

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 記憶が定かではないのだが、上原中学校では私は確か「1年2組」だったと思う。担任は当時まだ24才か25才位のK先生という、若くて美しい女性で、かつ綺麗で才能にあふれ、非の打ちどころがない国語の先生だった。それに、どこかでこのブログを目にするかもしれないし。

 

 しかし我々のクラスメートがここでも皆、閉口したのは授業が終わった後のクラス会の長さだった。

 

 毎日小一時間は放課後、クラス会をしていたのだが、何の議論をしていたのかこれもまた記憶がない。


 「反省会」のようなものだったとしか思えないのだが、いくら悪ガキでも毎日小一時間も反省し続けなくてはいけないほどの材料はなかったと思う。


 K先生は秋に結婚されN先生となったため、このブログではN先生で通す。


 連日の長時間にわたるクラス会に続いてもう一発、もっとすごいパンチがN先生から出された。それは5月の連休を利用して書けという長文の作文の宿題だった。

 

 テーマは自由、必要条件は原稿用紙8枚以上だったか10枚以上だったか、それまでは最長で原稿用紙2枚までの作文しか書いたことがなかった我々にとって、途方もなく長い作文が宿題に出されたのだった。「中学生」という大人への洗礼だった。


 その直前の春休み、私は両親に連れられて一週間ほどの旅程で関西と北陸の旅行をしていた。この時、教師だった母に旅日記を付けるように言われ、黒い表紙のノートに旅の日記を付けていた。

 

 まあ、紀貫之みたいなものだ。

 

 N先生から長文の作文の宿題が出た時、私はこの旅日記を持参し、これで勘弁してもらえないかとお聞きすると、これで良いが題名をつけて提出しなさいと言われ、私は安直に「中央日本三角まわり」という題名を付けた。


 この時点では「これで楽ができた!」と喜んだ訳だ。


 ところがN先生は中学生がこのような「紀行文」を書くのは珍しいと、この「中央日本三角まわり」をえらく気に入られ、旅日記を読売新聞主催の作文コンクールに応募できる「作文」に書きなおすよう、私を指導するとおっしゃる。

 

 まだ仕事から逃げるテクニックを知らなかった時代の私は、最終的には原稿用紙で40枚だったか50枚だったか(もしかするともっと多かったかもしれない)になった超大作に取りかかる羽目になった。


 先生はマン・ツー・マンで指導してくださった。10回以上は行われたこの個別指導のほとんどは夏休み中で、先生は水泳部の担当だったのだろうか、いつもプールから直行し、手に白いタオルを持ってまだ水で濡れた紺か白のワンピースの水着のままで私の横に座り、個人指導に取り掛かるのだった。

 

 二人で原稿用紙をのぞきこむといやでも先生の太ももが目に入った。ついでに言うと先生の胸は思ったより小さかった。

 

 今考えるとなんと惜しい事か、このような形の密着指導にもかかわらず、私は何の興奮もしなかった。

 

 私はオクテだったのだ。小学校の時の先生からも同窓会で、「あなたはオクテだった」と言われたことがある。


 私が考えていたのはただひたすら、早くこの拷問の様な超長文の作文を完成させて、自由な夏休みになりたいという事だった。


 超大作も終盤に差し掛かり、かなり疲れて来た私は長野県について、「軽井沢を通過した時、私は寝ていた。」で済ませようとしたら、先生にダメを出された。実際に寝ていたので先生にそう申し立てたのだがそれでも何か書けと言われ、軽井沢の事を本で調べて書き足した。


 とにかく万事に熱心な先生でいらっしゃった。


 この「中央日本三角まわり」は「読売綴り方コンクール」の東京都レベルの選考で三等賞を頂戴し、読売新聞社へ表彰状を貰いに行った。副賞は小さな木箱に入っており、何が入っているのか、開けるのが楽しみだった。

 

 しかし中身は何の役にも立ちそうがない長方形の文鎮で、私は非常に落胆した。

 

 この文鎮が「人生では苦労をしても必ずしも報われるものではない」という事をしみじみと悟った初めての時だったような気がする。


 N先生については日本語の「文法」の授業も懐かしい。「ないようますたてことときば」だ。日本語の動詞には五段活用とか上一段活用とか何種類かある訳だが、どのタイプの活用かを見分けるのに使うのが「ない・よう・ます・た・て・こと・とき・ば」だった。動詞の語尾にこれらをくっつけると活用の種類が分かる。


 もっとも日本語の文法は日本人が学んでも普通はあまり役には立たない物ではあるが。