「越境組」という少数派だったが、学校はとても楽しかった

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 40人強のクラスメートの大半は上原小学校出身者と富ヶ谷小学校出身者だった。プラス若干のその他の小学校出身者が混じっていたが、その大部分は所謂「越境入学」組で、私もその一人だった。


 私は、なぜ上原中学校に越境入学する事になったのか、一切の手配をしていた母からは何も聞かされていなかった。何だか分からないうち、入学の直前に「あなたはここへ通うのよ」と連れていかれた様な覚えがうっすらとある。


 入学してしばらくして数学のO先生から「お前のキリュウ先はどこだ」と聞かれ、知りませんと答えると「お前は自分のキリュウ先も知らないのか」と呆れながら怒られた。O先生はよく怒る先生だった。

 

 「寄留」とは越境入学をするために学区内のどなたかの家に住民票を置かせていただく手続きの事なのだが、母の説明によれば私は鼻が悪い事になっていて、治療のために通う掛かりつけの耳鼻科が上原中学校の学区内にあり、渋谷区としては通院の便を配慮して「越境入学」を認めてくれたのだという。


 従って「寄留先」がないという、当時でも変わった越境入学だったらしかった。


 私はこの耳鼻科がどこにあったのか、当時も今も知らない。それどころか先生も医院の名前も知らない。第一、耳鼻科に通わなくてはいけないほど鼻は悪くなく、耳鼻科にはかかった事もなかった。


 しかしこんな込み入った大人の間の論理が中一時分の私に分かる筈がなく、このようなあらすじの話である事を了解したのは、ずっと後の事だ。


 その後の人生で「なぜ上原中学校を越境先に選んだのか」、二、三回、母に聞いたことがあるのだが、いつも今一言いにくそうではっきりしない。

 

 想像するに、通院していないのに通院していると融通を聞かせてくれる耳鼻科に何らかのつてがあって、そこの学区がたまたま上原中学校だったという事ではなかったのだろうかと思うのだが、こんないい加減な理由による学校選択では母親として息子に面目が立たないので、はっきりとした理由を今でも言えないのではないかと勘繰っている。


 後に大人になってから聞くと、入学直後は上原小学校卒業組と富ヶ谷小学校卒業組の間には子供らしい些細で、微笑ましい相互けん制もあったらしいが、私には誰がどちらの小学校か区別がつかなかった。一方、越境組はみな電車通学だったので、すぐにわかった。


 最近の事だが、当時から観察眼が鋭かった同級生のある女性から「越境組は靴が泥で汚れていて、雨の日はゴムの長靴を履いてきたのヨ」とからかわれた。確かに昭和40年代前半当時、渋谷区の道路は皆、舗装されていたが、私が住んでいた狛江には未舗装の道が多かった。


 その他の点でも「文明の程度」として、渋谷と狛江には大きな差がついていた時代だった。1964年(昭和39年)に開催されたあの東京オリンピックに伴う各種の恩恵はもろに上原中学に及び、狛江はまだその外側にあったためだと思う。