毎日がこんなに愉快だった「越境組」の通学風景

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 越境組の主要メンバーは男性8人組で、半分が小田急線の玉川学園や町田、半分が狛江から通っていた。


 そのうちの6、7人が電車と車両を決めて、遠方からの組が向ヶ丘遊園駅で各駅停車の始発に乗り換え、車両の隅にある4人掛けの座席を占領し、そこへ私を含めた狛江から乗る組が合流していた。


 これは私にとって人生最大の楽しい電車通学・通勤の時間だった。毎日、きゃっきゃ、きゃっきゃと大騒ぎし、何回か他の乗客の方から注意された(顰蹙を買った)こともあったが無視して騒ぎ続けた。客観的にはさぞかし、はた迷惑だったろうと反省している。

 

 しかしこれはまあ、大人としての反省だ。


 例えば、中一の頃はまだお尻が小さく、4人掛けの席だと5人が座れた。そこへ6人目が座ろうと腰を落とすと必ず誰かが浮かび上がってしまう。誰が浮かび上がるかは予想ができず、それが面白くて満員電車の中でげらげら笑いながら騒いでいた。これに類する「遊び」ばかりしていた。


 ある時、英語のY先生が、「今朝、となりの車両で大きな声で騒いでいる連中がいたが、君らではないだろうな?」と問いただされた。しかし「騒いでいる」という自覚はなかったので「いいえ」と答えた。


 越境組の通学ではもう一つ、Y先生から怒られかけた。


 越境組は東北沢駅で降りていたのだが、上原中学までの最短ルートで通うと踏切で待たされる。少し遠回りしてトンネルをくぐって通っていたのだが、踏切から3軒目と4軒目の家の間の隙間を通ると近道になり、いつもこの隙間を堂々と通っていた。


 家と家のすきまをこうして入ると反対側には屋根の付いた門があり、そこから出るのだった。つまり我々はよそ様の家の小さな庭の隅を通って、その門を内側から公道に出ていた訳だ。幼い我々はその不自然さ(無礼さ)に全然気が付かなかった。


 この家の方は多分、毎朝、庭を通過する中学生の集団に相当不愉快に思っていたと想像するのだが、我々には注意もしなければ、顔を合わせてもいやな顔もされていなかった。


 しかしどうも我々を上原中学校の学区に隣接する世田谷区内の別の中学校の生徒だと思い込んでいらしていたらしく、そちらの方へは何回も苦情を言っていたフシがある。


 この近道が完全に定着してずいぶん経ったある時、「担任の先生は誰ですか」と聞かれ、悪い事をしているという自覚が全くなかった事もあり、正直に「Y先生です」答えた。


 しばらくするとY先生から「君たち、人の家の庭に勝手に入ったりはしていないだろうな」と問われたが、我々にはそんな自覚は全然なかったし、この件だとは思ってもいなかったので、そんな泥棒みたいな真似はしていないと胸を張って「いいえ」と答えた。

 

 そしてこの近道はその後も続いた。


 もう一つ越境組で懐かしいのは同じクラスで同じテニス部だったS君に連れられて渋谷まで歩いて行った時の事だ。S君は洗練された地元組だった。

 

 一緒だったのはテニス部所属の越境組3人で、みなラケットをナップザックに差し込んで背負って長パンの体操服で歩くという、今、思うと赤面するようなダサい恰好だった。ハチ公の銅像に着いたとき、越境組3人はしげしげとハチ公を見つめ、「これが忠犬ハチ公か」と大きな声で話していた。


 その時、S君はするすると我々から離れていった。なんであの時、我々から離れて行ったのかと聞くと、「『これがハチ公か』と言っているような田舎者の仲間と見られたくなかった」とのことだった。


 遠足の帰りの電車の中では越境組は集まって窓を開け、外に向かってなにか意味のないことを叫んでいた。そのうち一人が「越境するなら上中(上原中学校)」と叫び出し、語呂が良い事もあり、ほかのメンバーも一緒になって「エッキョウするならウエチュウ」と声を合わせた。

 

 踏切に人がいる時は、特に力を込めて叫んだのだった。