生涯の親友、N君とT君を得る/N君のご両親の墓前にて

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 上原中学校に入学した時のクラスは皆、仲が良く、私もいっぺんに沢山の友達が出来た。中でもN君とT君は終生の友となった。2人とも私の事を私のカミさんより知り尽くしている。

 

 N君の家は東大の駒場キャンパスの近くで、彼も東大に進学したことから私は年がら年中、彼の家に入り浸っていた。そのうち彼がいなくても上がり込んで、彼のお姉さんと話し込んでいる時間の方が長くなった。

 

 お母様はそんな僕たちに実の子供の様に接してくれた。お父様は造船関係の博士号を持つエンジニアだった。

 

 N君の家は江戸時代に起源をもつ岐阜の「山代官」の直系の家だそうで、今はこの家は弟さんが継いでいらっしゃる。

 

 N君の生家でもあり、弟さんの自宅でもあるこの江戸時代に建てられた豪壮な住宅は、岐阜のヒノキでも知られるその村の観光名所の一つになっていて、地元のマップに載っている。

 

 大学生の頃、N君に連れられて2回、この山あいの村へ遊びに行った。この旅行は明らかに私の青春期の人格形成に大きな影響を与えている。

 

一昨年(2013年)、約40年ぶりにこの村を訪れ、弟さんにお父様とお母様のお墓に導かれた時は、思わず胸と目頭が熱くなった。それほど僕らを可愛がってくださった方々だった。

 

 N君は商社に進み、社会人人生の前半をオイルマンとして活躍、エジプトの大学に留学した後、ニューヨークに駐在した。その後、同じ会社の映画ビジネス部門に転身、今(2015年)もその延長にいる。

 

 もう一人の終生の友、T君とは同じ越境組でしかもテニス部仲間だった。私はテニスは随分長いことやったにも拘らず全然うまくなれなかったのだが、彼は後に本格派になった。

 

 自宅が数分の距離にあったので、大学生の頃は互いに行き来し、深夜までいろいろな事を話し合ったものだ。青臭いが、これも明らかに青春だった。

 

 T君は4人の男兄弟の末っ子だった。外語大のインドネシア語学科に進み、卒業後は商社やメーカーでインドネシア担当が長く、今、3回目の外資系部品メーカーの社長としてインドネシア駐在中だ。

 

 私は彼の初めてのジャカルタ駐在時にお邪魔した。彼のリクエストに応えて日本のコメと変わり味噌とアジの開きを持参したら、「今日はパーフェクトな日本食だ」と、ご夫婦とも大変喜んでくれた。

 

 まだ30代中盤だったのに、彼ら夫妻はメイド2人に門番1人、運転手付きという豪邸(借り上げ社宅)に住んでいた。インドネシアのメイド制度では新人は気に入らなかった場合、3か月間の試用期間の最後の日にクビを通告し、その日の夕方に荷物をまとめて出て行ってもらう。「クビ」をどちらが言い渡すかで二人はギクシャクしていた。

 

 T君とは大学時代、英会話の習得を狙っていろいろ動き回っていた時も一緒だった。相手は外語大付属日本語学校のオーストラリア人2人が中心で、もう一組、成城にあるキリスト教の協会を通じたアメリカ人のグループとも付き合った。

 

 社会人になってすぐの頃、ひょんな事から一回りも年上の文化人グループに入ってしまった時もT君と一緒だった。錚々たるメンバーの文化人達だったのだが、我々は彼らに飼われているペットの様な物だった。プロの女性オペラ歌手が2人いて、いつも花束贈呈係をやらされた。

 

 旧軽井沢の有名女流作家の別荘ではT君は「女の道」を歌い、私は「八木節」を歌って大うけした。八木節は大学3年の時にダム工事の研修で派遣された先である群馬県の大間々という町のバージョンだった。

 

 中学一年生が終わった春休み、三人で山中湖へ旅行した。私にとって「子供だけで行く旅行」はこれが生まれて初めてだった。

 

 石鎚山に登ろうとしてホテルマウント富士の裏手から10分くらい歩くと、稜線に無数の犬が現れ、危険を感じて引き返した。当時からあの辺りは「捨て犬」の名所だったのだ。

 

 N君、T君との思い出は尽きなし、付き合いはまだ現在進行形だ。二人はこのブログのどこかでいずれまた登場すると思う。