人生で初めて知った「バレンタインデー」という風習

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 私が渋谷区立上原中学校に入学した昭和41年当時の事を、「『文明の程度』として、渋谷と狛江には大きな差がついていた」と前に書いたが、補足したい。私がこの差を実感したのは中学一年の時の年明け、即ち昭和42年の2月のバレンタインデーの時の事だ。


 当時のバレンタインデーは女の子にとって「義理チョコ」「友チョコ」などまだ存在しない、年に一日だけ女性からの愛の告白が許される(とされていた)ガチの勝負の日だった。


 1月も半ばを過ぎた頃、クラスの中で三人くらいが集まってひそひそと情報交換をしていて、そのうちそのようなひそひそ話での情報交換の輪があちこちで発生するようになった。


 この間、私はまったく蚊帳の外だった。そもそも「バレンタインデー」などという言葉も習慣も聞いた事がなく、全く知らず、従って当然、誰が誰にチョコを贈るかというスリリングな予想の情報交換の輪にも入れてもらえる筈もなかった。


 入学して約10カ月経ち、この頃には私はクラスではもう皆から一目置かれている存在だったように自分では思っていたのだが、実にアホな話である。


 2月14日、私以外のほぼ全員が固唾をのんで待つ中、男子の××君の下駄箱の中にチョコレートが置かれていたとの情報が駆け巡った。誰がそれを入れたのかについても憶測が飛び交い、男子はみんなが興奮して話をしている。この時は「ひそひそ話」ではなく、気が立ったような声音で話が交わされていたため、私はやっと状況の半分くらいを飲み込めた。


 後日、残りの半分を飲み込んで全体像が分かり、やっとバレンタインデーにかかわる一連の出来事を了解した。狛江の小学校では「バレンタインデー」の「バ」の字も話題になった事はなかったのだった。


 その後の人生で、バレンタインデーには幾つか思い出があるが、最も印象深いのは三越の元紳士服部長さんの話だ。彼の職場でもバレンタインデーは「倍返し」というのが習慣になっていた。「倍」を狙って、60人を超える部下から5,000円くらいの物が義理チョコでプレゼントされるので、ホワイトデーの出費は60万円を越したものですとこぼしていらした。