私が住んでいた「狛江」という町の、昭和30年代後半のようす

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 私が小学生時代、昭和30年代中盤~40年代初頭の狛江の様子を思い出すままに書いておこう。


 昭和37年の夏休み、小三の時に大塚から引っ越した私は、通学路の横に「肥溜め」があるのを見つけ、何があってもこの中にだけは落ちてはいけないと子供心に思ったものだ。学校の近くに牛を2頭、飼っている農家があった時代である。


 小学校1、2年生が入る古い木造校舎の教室は大雨の日はひどく雨漏りした。


 麦畑の上空ではひばりがさえずり、さっそく仲良くなった同級生の友達が「こうやるとひばりが下りてくるんだ」と言ってこぶし大の石を両手に握り、カン、カン、カンと打ち付けると、ひばりは慌てて空から麦畑に舞い降りるのだった。


 今は仙川から和泉の交差点を抜けて世田谷通りに抜ける狛江地区の幹線道路もまだ砂利敷き、通る車はほとんどなく、広い道路の中央を5、6人で隊列を組んで歌を歌いながら登下校した。

 

 成城の丘につながる山は通称「だんご山」と呼ばれクワガタムシの宝庫だったが、なぜかカブトムシはいなかった。バッタ類なら家の近所の空き地でいくらでも採れた。まさに「天国」だったのだ。


 小学校5年の理科の自然学習の時間は先生が気を利かせてくれてみんなで遠征し、レンゲ草が咲き乱れる広大な多摩川の旧河川敷の野原で思い思いに遊んだり、写生をしたりした。


 至って牧歌的な小学生時代だった訳だ。


 私は元々は大塚駅と池袋駅の中間あたりで生まれ、小学校3年(昭和37年)の夏休みに引っ越しして狛江への小学校へ転校した。つまり昭和37年、9才までは都会派だったのだ。その頃の大塚、池袋近辺は闇市があったなど、戦後の色をまだ濃く残していた。

 

 しかし昭和41年に渋谷の上原中学校に入学した時、私にとって「空白の4年弱」の間に東京の都心部は激変していた。


 原因はたぶん昭和39年の東京オリンピックだろう。上原中学校がある渋谷区には代々木競技場や選手村があったし、国立競技場も遠くはない。

 

 一方、狛江の小学生にとってオリンピックをなまで感じたのは甲州街道を走ったマラソンくらいだった。小学校から歩いて20分位の所へ先生に引率されて出かけて、ランナー達を応援した記憶がある。


 そういえば入場券が捌けなかったのであろう、引率されてホッケー観戦もした。しかしルールを知らないスポーツなど、見ていても全く面白くなかった。