小田急線の思い出

 小田急線は私を育ててくれた電車だ。車窓の景色が美しい路線だった。狛江市(当時は北多摩郡狛江町だった)に住んでいた私は「喜多見駅」から毎日往復で小一時間乗り、上原中学校に通っていた。

 

 我々、越境組は電車通学の当初、学校からの帰りは先頭車両の運転士さんのすぐ後ろか、最後尾の車掌さんの近くに乗ることが多かった。

 

 一年生の頃はまだ小学生気分の延長の「悪ガキ」であり、よく車掌さんをからかった。もちろん仕事中なのだから先方は相手にはしてくれないのだが、こちらの話を聞いてはいるという事は素振りで分かった。(悪ガキなりに運転士さんはからかってはまずいと思っていた。)

 

 小田急線では車掌さんは電車のドアを閉じて出発進行をかける時、一回一回、「ナントカカントカ、進行!」とはっきりした声で確認することが決まっているらしかった。その「ナントカカントカ」の部分が、一駅ごとに異なっていた。

 

 我々がそれが面白くて、「こんどは××進行だろう」「こんどはきっと△△進行だ」とあてずっぽうに車掌さんに言ってみるのだが、あたったことは一度もなかった。

若い車掌さんはそんな僕らが面白かったらしく、「違う、また違う」と首を振りながら、照れくさそうに苦笑いをしていた。

 

 今はもう、地下区間になってしまっているので見ることはできないだろうが、下り線では東北沢駅から下北沢駅に向かう線路のちょうどま上に、驚くほど大きな富士山が見えた。

 

 冬の冠雪を冠った富士も素晴らしかったが、あかね色の夕焼けに黒々と浮かぶ晩秋の富士には凄みすら感じたものだ。同じ越境組仲間だったT君も、このアングルで見るにはすっかり魅入られていた。

 子供だった私が初めて感じた「自然の景色の素晴らしさ」は、たぶんこの景色だと思う。

 3年ほど前だったか、この区間が地下化する前の小田急線に乗った時にたまたまこの景色を見ることができた。これで見納めだなと思うと感慨深かった。

 

 下北沢駅の構内には「箱根そば」といういかにもサラリーマン向けという立ち食いそば屋さんがあった。テニスで年がら年中、腹をすかしていた我々はよくお世話になった。

 

 中学生だからこづかいも少なく、注文したのはいつも一番安い「かけそば」だった。20円か30円の違いだったと思うが、「たぬきそば」の注文はためらわれた。

 時々、てんぷらを揚げた残りなのだろう、「天かす」がサービスでカウンターに並ぶ時があり、我々は歓声を上げてタダのそれらを取って「かけそば」に乗せ、「たぬきそば」にした。ものすごく得をした幸せな気分になり、うれしかった。

 

 成城学園前駅を出て切通しを抜けると、喜多見駅までは左右の(南北の)展望がとても開けた区間になっていた。当時は左右ともに建物も家も建っていない広大な空き地で、特に北側ははるか遠くまで湿地帯が広がり、丈の短い草が生えていた。

 

 狛江の自宅からはさほど遠い距離ではないのに、ここは一種の「異界」のような雰囲気を持った場所で、訳が分からない川筋が何本かあった。私はこの「異界」にはほとんど行かなかった。

 

 私が小学生のころに通い詰めたのは小田急線から2キロほど離れた、成城の丘から連なる通称「だんご山」とよばれる丘で、夏休み中は毎日のように夜明け前に起きてクワガタ虫を取りにいくのだった。(これは中学生の頃には卒業していた。)

 

 「だんご山」というのが、連坦する丘のどの部分を指すのかは、人によって異なることがあるらしいのだが、私が通いつめただんご山については、クワガタがとれるめぼしい木の場所は全部、覚えていた。

 

 小学校3年生か4年生の時、だんご山から先へ足を延ばしすぎて、方角も、家への帰り方もまったく分からなくなり、心細さに一人で泣き出しそうになったことがあった。狛江から仙川に抜ける長い大きな坂道の途中に出たわけなのだが、そのあたりは当時の私にとってまったく未知な領域だった。

 

 クワガタだけではなく、バッタとかカマキリもよく捕まえて家に持ち帰ったが、これらは、昆虫としての「くらい(位)」はクワガタよりも低かった。ある時、小振りのタンスの扉を外して網戸の網を張り、虫かごとしては大振りで最適と思われるものを作っていたところ、その構想を聞いた母にえらく怒られ、止めさせられた。母は私や弟が家の中でこれらの昆虫を飼うのを好まなかったのだ。

 

 そういう生活をしていたのに、なぜかバッタやカマキリはもちろん、ザリガニとかいろいろなものの宝庫のはずのこの広大な湿地帯には足が向かなかった。理由は分からない。何か、勘違いをして不気味なものを感じていたのではないかと思う。

 

 後年、私の家の裏を流れていて大雨のたびに氾濫していた「野川」がこの湿地帯に付け替えられた。しばらくの間「新野川」と呼ばれていたのだが、やがて単に「野川」と呼ばれるようになった。今、小田急線から見下ろすと、野川沿いにはこぎれいに整備された河川公園がある。たしかテニスコートもあったと思う。

 

 それらができる前、水が抜けた湿地帯のあとに出現した広大な平地に、まったく意味を感じさせない電車の引き込み線が、わざわざ土盛りをして敷かれていた時期があった。しばらくするとトロッコがまるで放置されるように置かれていた。噂によれば、小田急電鉄が「鉄道用地」としてこの広大な土地の払い下げを受けたので、それをカムフラージュするためにそうしている(鉄道用の土地として言い訳が立つようにしている)とのことだった。

 

 実際、今の小田急多摩線は原案では喜多見駅と狛江駅の間で分岐して多摩ニュータウンに向かうはずで、狛江の住民に対してはそう説明されていた。しかし「町を分断する」との反対運動が出て、今の新百合ヶ丘駅から分岐する形になったと聞く。

 

 だから当時、将来の操車場・車庫用地として小田急電鉄が喜多見駅周辺の土地を押さえておきたいというのは、十分に了解できる話だ。

 

 私が小田急線を「ホーム・トレイン」としなくなってから離れて、ずいぶんと経つ。変化を連続的に体験してこなかった者にとって、高架を走る今の小田急線はまるで未来都市の電車のようだ。

 

 駅も駅前も未来都市だ。

 複々線化のおかげだろう、喜多見駅から新宿駅にもあっという間に着くようになった。

 

 こうして、時代は進むのだ。

 

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