「テニス部」と「理科クラブ」

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 先にわけが分からなかった「理科クラブ」の方から書くと、自分の記憶としてあるのは、渋谷区内の中学校から数人ずつが集められて、井の頭通りを走るバスに乗って通った場所(地理的に考えて、大山中学校だろうか)に行き、実験をした事だ。

 数人の仲間と数回通った。それまで「理科クラブ」という「部」は存在しておらず、自分も当然、理科クラブとは無縁だった。たぶん先生に言われたのだろうと思うのだが、比較的「理科好き」の仲間が集められたのだった。

 

 どういう脈絡でこういう「よその中学校まで出かけて理科の実験をする」という趣旨がよく分からない事をする事になったのか、まったく記憶がない(というより、最初から何もわかっていなかったと思う)。

 たぶん渋谷区の教育委員会あたりが発案して区内の各中学校によびかけ、理科のM先生あたりが(仕方がないから)お前たちが行けというような感じだったのではないかと思うのだが、これはあくまで想像だ。

 「理科クラブ」はこの時の三、四回の出張の実験に通っただけで、その後、ただちに消滅した。

 

 テニス部の方では三年間、非常にまじめに活動した。

 

 T君、O1君、O2君、S1君、S2君、同じ学年の仲が良く、気の合う仲間が、テニス部には勢ぞろいしていた。ただテニスコートは今考えるとひどいものだった。一部にゆるやかな段が付いていて「平ら」になっていない。そこをいくらみんなでローラーを引いても、原理的に平らになるはずがない。にもかかわらず、みんなでよくローラーを引いた(そう言えば、うさぎ跳びも随分とした)。

 

 それでもプールの横にあったこのみすぼらしいテニスコートは、われわれテニス部の部員たちにとって大切な場所だった。ところが野球部の練習日と重なると、フライがぼんぼん飛んでくる。野球の監督だったある先生は明らかに私たちの方を狙って、ライナー性の球を打ち込んできた。それでも我々は練習を止めなかった。

 

 三年生に魅力的な女性の先輩がいた。この時の私の感情を説明するのは難しい。それまで自分は同級生等の女性を「女性」として感じた事はなかったのではないかと思う。「好きな女の子」みたいなのはあったように思うのだが、そこに「性」は入っていなかった。この先輩に初めて「女性」を感じたのではないかという記憶がある。

 

 初恋とは全く違うのだが、この時、私は私自身、同級生の女性達に向けた視線とは違う視線で彼女を見ている自分に気が付いたのだった。中学一年生の夏だった。

 

 ただ前にも書いたが、私は非常に「オクテ」だったし、今でもこの時の感情の事をどう表現すればよいのかよくわからないくらい、非常に淡いものでもあった。今でも覚えているのは彼女のテニスをする、魅力的な後姿だけで、残念ながらお顔も名前も覚えていない。

 

 テニスは軟式テニスで、私は前衛だった。ところが渋谷区の新人戦の時、同学年の後衛の一人が病気になってしまい、私は急きょ後衛をさせられた。まともに上から打ったらサーブなど入る筈がなく、まるで初めてテニスをやる時のように、下からスローな球を山なりに打った。相手はこのとんでもないサーブに調子を狂わせ、我々は勝ってしまった。

 

 渋谷区の区立中学校は9校しかない。我々は1回勝っただけで、「ベスト・フォー」になった。「渋谷区新人戦ベスト・フォー」・・・これが私の生涯のテニス歴で最大の戦績となった。

 

 その後の事だが、高校ではテニスを中断し、大学ではみんなでサークルを作って、硬式テニスを楽しんだ。就職後もこれを続けた。しかし下手くそなままで、さらに下手さの度合いがだんだんひどくなるのに嫌気がさし、40才半ばでテニスはやめてしまった。

 

 三井不動産を「卒業」した後、横浜市主催のテニス教室があるのを発見、運動不足の解消を兼ねて申し込んだ。定員の制限があって、あったり外れたりするのだが、当初はますます下手になっていた自分を発見、ほかの方々からからはたぶん白い目で見られていたと思うのだが、5回くらい通って、やっと球があたるようになった。

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