ドロップハンドルの自転車と多摩川

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 中学一年生の時、母にねだって自転車を買ってもらった。当時流行の「五段変速のドロップハンドル」だった。色もシルバーの下地に当時の私が好きな色だった鮮やかなブルーを組み合わせたもので、とてもうれしかった。

 

 まずは近所を乗り回した。あまり一生懸命いろいろな道を走ったので、家から1キロ圏内くらいの道はすべて頭に入ってしまったのではないかと思う。

 

 ところが、このドロップハンドルの自転車、自転車としての格好は良いのだが、どうも町の中を乗り回すのに不都合なのだ。ハンドルがドロップした下の部分を握って体を極端に前傾して走るのが基本型なわけだが、これはいかにもスピードを出す姿勢で、後で「ドロップハンドル」というのは競輪の選手用のモデルであることを知った。全力で走ると、かなりの速度が出るのだが、まだ自動車が少ない時代だったとはいえ、こんな格好で走るのに適した道は近所にはなかった。

 

 玉川学園にあった英語の先生の家に、みんなで自転車でお邪魔した。狛江から片道2時間はかかったと思う。ほかの仲間は渋谷の上原とか富谷とかから来てくれた。たしか鶴川から玉川学園へ抜けるための峠だったと思うが、全員がへばった。

 

 私がちょっと遠出をして最も多く通った先は多摩川だ。家から2キロくらいのところにあり、自転車で程よい距離だった。それまでは自分の日常的な活動範囲の外にあった多摩川に、自転車のおかげで急に通うようになったわけだ。

 

 買ってもらった当初は喜んで乗り回していたこのドロップ自転車、なにせ姿勢に無理があり、だんだん乗らなくなり、次第に母が主に使っていたいわゆる「ママチャリ」で多摩川に通うようになった。

 

 多摩川の堤防上に「サイクリング道路」が整備された。夏休みのある非常に暑かった日、いつものように財布も何も持たずにママチャリで多摩川に出かけ、偶然、登戸の付近でこの道路上に河口に向けて(確か)「18km」と表示されているのを見つけた。予定外の行動だったが、軽い気持ちでこの爽快な道を下流方向へ向かった。

 

 ものの2kmも走るとのどが渇いてきた。しかし一文無しで出かけたので、缶ジュースを買うお金がない。水を飲む所も見当たらず、のどがカラカラになるのを我慢して、何とか終点までたどり着いた。戻るのには全く同じ距離を走らなくてはいけなかったので、登戸に戻った頃にはのどは完全に干上がり、体もくたくたになった。こんな簡単な事でも無計画にやり始めると、意外な落とし穴があるものだと悟った。

 

 多摩川にはいろいろな思い出がある。T君やO君とよく釣りに出かけた。釣れるのは地元では「くちぼそ」と呼ばれている小ぶりな魚がほとんどで、まれに「フナ」が混じっていた。理科好きで研究者タイプだったO君は自宅でコンクリート製のゴミ箱の前面に大きなガラスをはめ込んで大型の水槽を作り、釣ってきた「くちぼそ」を飼ってこれらがどんなタイミングで餌を口に入れるのかを観察して釣り竿の上げ方を研究していた。

 

 思えば、この昭和40年代前半頃と言うのは、多摩川の水質が最も汚れていた時期ではないかと思う。水面のあちこちには油が浮き、釣った「くちぼそ」は化学薬品の匂いが染みついていた。狛江に引っ越した昭和37年当時は多摩川で泳いでいる人がいたのだが、この頃にはもうそういう人はいなかった。

 

 そう言えば、昭和37年の夏休みに狛江に引越しをした直後、私と上の弟は母に連れられて多摩川で泳いだのだが、9月の新学期に担任の先生が「多摩川で泳いだ人間はいなかっただろうね」とおっしゃった。水質の問題だったのか、川泳ぎが危険だったからなのかはわからない。禁止されていたとは知らなかった私は、だまっていた。

 

 自分の行動範囲には「堰」が二カ所にあった。一か所は上流側で「ダム」といってもいいくらいの大きさだった。こちらは遠かったのでめったにいかなかった。

 

 もう一カ所の堰は小田急線の鉄橋から少し下流にあった。ここは私が大学三年生、1974年の秋に台風16号による大雨で堤防が決壊、民家19戸が流され、後に「岸辺のアルバム」の舞台になったところだ。この時、多摩川の本流の流れを遮っていたこの堰を破壊しようとして自衛隊がダイナマイトを仕掛けたのだが、堰はびくともしなかった。ダイナマイトが爆発した瞬間、2キロほど離れた我が家の窓ガラスもびりびりとふるえたものだ。堰のそばには岩の浅瀬を水が流れる不思議な、とても心が安らぐ空間があった。だがそれは短い期間だけだったようで、今はその痕跡もなく、どこのことだったのか分からない。まるで夢でみた話のようにさえ思えるのだが、小さな子供たちが喜んで水遊びをしていたのをはっきりと覚えている。

 

 実はこれらの堰、二つとも、私が中学生の時代から存在したという確固たる記憶すらもない。なにしろ時は「高度成長時代」だったのだ。色々なものが次から次へと建設されていった。今の5年から10年分の物が1年で出来ていた感じの時代なのである。中学時代の一時期を除いて、多摩川に通う頻度は2年に一度くらいになった。行くたびに多摩川は何らかの形で変わっていた。

 

 小学生の時に担任の先生の計らいでみんなで遠征した多摩川沿いの広大なレンゲ畑は、調布市と狛江市にまたがる「多摩川団地」と言う名の大きな団地に変貌していた。堤防は大きく立派なものになり、場所によってはコンクリートで固められ、河川敷はきれいな公園に整備されていくのだった。

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