思い出の葉山海岸

 三浦半島にある葉山海岸には、毎年、家族で海水浴に行った。それが坪田家の夏の年中行事だった。父の会社の保養寮が葉山にあったのだ。

 

 今、地図で確認すると、その保養寮があったのは「葉山御用邸前」の三叉路からわずかに三浦よりの「下山橋」という信号のあたりだと思う。小学校教師だった母が中心となり、毎年夏休みに入ったすぐの7月中に二泊三日するのが、決まりだった。母は8月になるとクラゲが出ると信じていたのだ。

 

 我が家でこの風習が定着したのは非常に古く、たぶん私が小学校低学年の頃だ。私が大学生の時も、まだ家族で通っていた。  

 

 その葉山で、私はひと騒ぎを起こしてしまった事がある。前後の記憶をたどると、たぶん小学校二年生か四年生の時ではないかと思う。

 

 このひと騒ぎの際、母は私が死んだものだと半ば諦めかけたらしい。この話は我が家にとっては一大事件だったのだが、あまりにも何度も母から聞かされているので、自分の記憶なのか、母から聞いた話なのか、分からなくなっている。自分では見たはずがない景色まで、記憶しているかのようなのだ。

 

 その日、葉山の一色海岸はほどよい大きさの波が立ち、まだ泳げなかった私は浮き輪を頼りに、浜辺からさほど遠くない岩のかたまりのまわりで遊んでいた。その岩のまわりは私のお気に入りであり、すごく楽しかった。

 

 しかし二才下の弟は、この日の波が苦手だった。母は私たち二人を連れて数百メートル離れた浜辺に行くと、そこは波がごく小さく、弟はこちらの浜辺を気に入ってしまった。

 

 だが、波も岩もないこのあたりは私には物足りない。一方、弟はこの波が静かな浜辺を気に入り、前にいた浜辺には帰るのを嫌がった。私は母と弟から分かれ、さっきの岩のまわりで遊んでいると母に言い残し、元の浜辺に戻ったのだった。

 

 ところがその浜辺に帰ってみると潮がすっかり満ちていて、子供心にもさっきの岩は浮き輪で行くには危険に思えた。私は一人で先に寮に帰ってしまった。

 

 騒ぎとなったのはここからである。 私が遊んでいるはずの浜辺に弟と戻った母には、私の姿が見つからない。岩のまわりは大人も背が立たないほどの深さとなっている。

 

 母はてっきり私がこのあたりでおぼれているものと思い込んでしまい、レスキュー隊の助けを借りた。

 

 母の言によれば、拡声器で「沖の巡視艇、沖の巡視艇、××岩近辺で小学校低学年の生徒が不明。至急、急行せよ」とのアナウンスが何回もあったそうだ。

 

 船が何隻か集結し、物干しざおのようなポールで岩の周辺に沈んでいる体がないかを突いて調べ始めた時、母は最悪の事態を覚悟したという。

 

  私は私で何か胸騒ぎを感じるところがあり、母がなかなか寮に帰ってこないこともあって、寮から浜辺へ行ってみた。その浜辺で座っていた時、アナウンスで私と同じ「黄色と白の横じまのTシャツを着た小学生を探している」という拡声器から流れるアナウンスも聞いた。

 

 しかし母はこの時、私がはいていたズボンの色を間違えていて、このアナウンスは自分に似ているが自分の事ではないと私は理解した。ほんの数分くらいで、また寮へ戻ってしまった。

 

  何か物を取りに寮へいったん戻った母は、そこで私を発見したのだった。子供心にはかなり長い時間が経っていた。

 母がレスキュー隊の方にどう説明して事態を収拾したのかは知らない。

 

  以上の話は母の心に深く刻まれていて、私はなんど繰り返し聞かされたか分からないほどだ。ここに書いた話にしても、先に書いたように自分の記憶なのか、母から聞いた話なのか判然としない部分がある。

 

  富山県砺波市にいた父方の祖父が倒れたという報を聞いたのも、葉山への二泊三日の旅行中の事、中学生の時だった。父の会社に連絡がはいり、父の同僚の方がわざわざ葉山まで来てくれたのだった。

 

  長じて三井不動産に就職すると、このあたりには仕事で何度も出かけるようになり、昔を懐かしく思い出したものだった。

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